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東京地方裁判所 昭和46年(ワ)876号 判決 1972年6月29日

原告 山本正作

右訴訟代理人弁護士 圓山潔

被告 猪野花子こと ハナコ・イノ・ラッジ

右訴訟代理人弁護士 武藤運十郎

同 吉成重善

主文

被告は原告より一、三五〇万円の支払を受けるのと引換に原告に対し別紙目録記載の土地建物を明渡し、且つ右土地建物につき昭和四五年一一月二一日付売買を原因とする所有権移転登記手続をせよ。

訴訟費用は被告の負担とする。

この判決は土地建物の明渡を命ずる部分に限り一〇〇万円の担保を供するときは仮に執行することができる。

事実

原告は主文第一、二項同旨の判決ならびに土地建物明渡請求部分につき仮執行の宣言を求め、請求原因として次のとおり陳述した。

「原告は昭和四五年一一月二一日被告との間で被告所有の別紙目録記載の土地建物(以下「本件土地建物」という。)を代金一、五〇〇万円、代金支払、明渡および所有権移転登記手続の日は昭和四五年一二月一〇日の約で買受ける旨の売買契約を締結し、右契約締結当日手付金一五〇万円を支払った。

よって、原告は被告に対し残代金一、三五〇万円の支払を受けると引換に本件土地建物を明渡し、且つ本件土地建物につき前記売買契約を原因とする所有権移転登記手続をなすべきことを請求する。」

被告は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」旨の判決を求め、請求原因に対する認否および抗弁として次のとおり述べた。

「一 請求原因事実中被告が原告から一五〇万円の支払を受けたことは認めるが、その余の事実は否認する。被告は昭和四五年一一月二一日原告との間で、本件土地建物につき、仮登記手続と同時に七五〇万円(手付金一五〇万円を含む。)の支払を受けたとき売買本契約を締結しうる旨の売買予約(予約完結権は売主たる被告のみが保有する)を締結し、予約手付金として一五〇万円を受領したにすぎない。

二 (抗弁)仮に本件土地建物の売買契約が締結されたとしても、右契約は無効であり、または失効した。

(一)  被告は長年外国に居住しているため日本における地価騰貴の実情を知らず、最低二、五〇〇万円の価値ある本件土地建物の代金を一、五〇〇万円位が相当であると誤信して売渡の意思表示をした。右は法律行為の要素に錯誤ある場合に該当するから、売買契約は無効である。

(二)  原告および不動産業者たる訴外中野善二は本件土地建物が最低二、五〇〇万円の価値ある物件であるにかかわらず、一、五〇〇万円以下であると被告を欺き、その旨被告を誤信させ、あわせて、もし原告に売らなければ本件土地建物を他に売却できないようにしてやると被告を強迫して畏怖させ、被告に売渡の意思表示をなさしめた。よって、被告は昭和四七年五月二五日の本件口頭弁論期日において売買契約を取消す旨の意思表示をした。

(三)  被告は昭和四六年二月一八日原告に到達した内容証明郵便をもって手付金の倍額三〇〇万円の償還をして売買契約を解除する旨の意思表示をした。」

原告は抗弁に対する認否および再抗弁として次のとおり述べた。

「一 抗弁事実はすべて否認する。

二 (再抗弁)

被告は昭和四五年一二月一〇日の期日が到来しても本件土地建物の明渡および所有権移転登記手続義務を履行しなかったのみか、その所在が判らなくなったため、原告は被告の連絡先たる実姉訴外猪野きみ方の被告に宛てて、同月一七日に前記義務を履行すべきこと、所有権移転登記手続のため東京都港区芝三丁目一五番一八号訴外館岡顕司法書士事務所に参集すべきことを通知した。これに対し、猪野きみより被告の所在が不明であるとの連絡に接したが、原告は前記指定日時に前記司法書士事務所に現金一、三五〇万円を持参して赴き、被告の来訪を待ったが、被告は遂に現われなかった。以上によれば、原告は既に売買契約の履行に著手したものであるから、被告は解除権を行使することができなかったものである。」

被告は再抗弁に対する認否として次のとおり述べた。

「再抗弁事実は否認する。被告は売買契約の履行に関し猪野きみを連絡先とする旨約したことはない。仮に原告が猪野きみ方に宛てて原告主張のような通知をしたとしても、被告はこれを受領していない。このように被告は履行の日時も場所も知らされていないのであるから、自己の履行行為をすることができなかった。原告は勝手に履行の日時場所を決めて、その日時にその場所に赴いたのである。本件売買契約のような双務契約で、双方債務の履行が同時履行の関係に立つ場合において、原告の叙上のような行為を目して履行の著手とすることはできない。」

証拠≪省略≫

理由

一  ≪証拠省略≫によれば、次の事実を認めることができる。

被告はその所有の本件土地建物において多年美容院を経営していたが、昭和四四年一月一六日オーストラリアで大学教授をしている訴外ラッジと結婚し、昭和四五年二月オーストラリアに赴く際、姉訴外猪野きみに右美容院の経営を委託した。ところが、間もなくきみは経営に行詰って美容院を廃業することとなったので、被告は実子晴雄の将来の生活を確保するため、本件建物を他に賃貸するか、本件土地建物を売却してアパートを買替える方針を立て、知人訴外中野チエ子を介し同人の夫富士信用不動産こと中野善二に諮ったところ、売却処分の方が得策であるとの意見であったので、昭和四五年八月下旬書信により中野に対し売買の仲介を委託した。他方、被告は姉きみに対しても、本件土地建物の売却斡旋を委託していた。昭和四五年一〇月末、被告はオーストラリアから帰国したが、その頃中野は前記委託に基づき本件建物の左隣に酒類小売販売業の店舗を構えて居住している原告のもとに本件土地建物売買の話を持込み、原告と中野の間で代金額を折衝中、きみも原告のもとに同じ話を持込んだ。原告はきみが被告の姉であり、常々被告のために責任をもってことを処理すると言明していたので、きみを相手方として売買の折衝を進め、同年一一月二〇日中野を交えてきみとの間で売買代金額を一、五〇〇万円、手付金を一五〇万円と取決め、残代金の支払、物件の明渡期日等について協議し、同日手付金を授受するとともに、翌二一日中野の事務所において被告の出頭を得て正式に契約書に調印することと定めた。同日原告はきみに対し手付金一五〇万円を支払い、同人名義の仮領収証を徴し、被告は同日きみから、原告に対し本件土地建物を一、五〇〇万円で売却する話を運んできた旨の報告を受け、右手付金を受取って直に原告に対し御礼の電話をかけた。

昭和四五年一一月二一日被告はきみの指示に従い中野の事務所に赴き、中野、きみ、原告妻の立会のもとで約一時間に亘って原告と売買条件について話合い、結局被告は原告に対し本件土地建物を代金は一、五〇〇万円、手付金は一五〇万円とし、残代金の支払、物件の明渡および所有権移転登記手続の日は昭和四五年一二月二〇日と定めて売渡す旨の売買契約を締結し、中野が作成した売買契約書に調印し、手付金一五〇万円の本領収証を原告に交付した。

このように認められる。

被告本人尋問の結果によれば、被告は本件土地建物を売却して月額一〇万円の家賃の上るアパートを買替えたいという考えから、前記売買契約書の調印前に都内数個所のアパートを見分したが、月額一〇万円の家賃収入を得るアパートを一、五〇〇万円で入手することは難しい状況であったことが窺われるが、本件土地建物がより高値に売却できるだけの客観的価格を有していたこと、被告がこれを知悉していて、該価格でなければ本件土地建物を処分する意思はなかったことを肯認しうる資料のない本件においては、被告は前記売買契約書調印の前日きみから報告を受けた一、五〇〇万円の売買代金をやむをえないものとして売買契約を締結したものと認めるのが相当である。

被告は原告との間で締結したのは売買予約にすぎないと主張し、≪証拠省略≫に右主張に添うような部分が存するが、そのまま信用することはできず、他に前認定を覆えして被告の主張を認めうる証拠はない。

以上のほか前認定を左右するに足る証拠はない。

二  被告は本件土地建物は最低二、五〇〇万円の価値ある物件であると主張するが、当裁判所の措信しない被告本人の供述部分のほかに右主張を認めうる適確な証拠がない。それ故、右主張を前提とする被告の錯誤の主張は採用できない。

三(一)  被告の詐欺の主張は、本件土地建物が最低二、五〇〇万円の価値ある物件であることを前提とするものであるところ、該前提事実を肯認しうる証拠がないこと前述のとおりであるから、被告の主張は採用できない。

(二)  ≪証拠省略≫によれば、被告から本件土地建物売買の仲介を委託された中野は、同業者菅原某に買手の斡旋を依頼する一方、自ら原告のもとに売買の話を持込み折衝する等売買の成約に奔走し、菅原からは買手が現われて手付金も受取っている旨の報告を受けていたので、被告が昭和四五年一〇月末に帰国するや、連日のように被告方に電話して売却の件を決定するように促し、その間に、もし売却を翻意するときは被告の負担で前記手付金の倍返をしなければならないようになるかもしれない等と述べたことを認めることができるが、原告および中野が被告に対し、もし原告に売らなければ本件土地建物を他に売却できないようにしてやると強迫した旨の被告の主張事実はこれを認めうる証拠はない。右認定の中野の言動にしても、いささか性急且つ執拗であるとの非難は免かれないとしても、これをもって直ちに強迫に当るとみることは無理であるのみならず、これがため被告が畏怖して本件土地建物売渡の意思表示をしたと認めうる証拠はない。

また、≪証拠省略≫によれば、被告は昭和四五年一一月二〇日(同日きみが中野を交えて原告と売買代金等の取決、協議をする前)、中野の事務所に赴き、売買仲介の委託を願下げる旨の文面と中野の従前の寄与に対する謝礼金二万円を同封したものを置逃げのようなかたちで届けたことが認められるが、右は被告が前述のような被告の督促を煩わしいとしてとった行動であると認めるべきであって、このような事実があったからといって、被告が畏怖の余り売買契約の締結にまで追詰められたものと推認することは許されない。

以上のほか被告はその本人尋問の中で、中野、きみおよび中野の妻等の言動について強迫を云為するが、仔細に検討すると、右は、所期の家賃を上げうるアパートが見付からなかった当時の焦燥感、自己が売買契約の締結に当り十分に自主的には動かなかったことに対する悔悟、一、五〇〇万円の売買代金を受け容れられないとする現時点での不満が入り混って、ことの原因を挙げて中野等に帰し、これを短絡的に強迫であると表現したものと認められるのであって、該供述をそのまま信用することはできない。

四  原告が被告に支払った手付金は別段の意思表示がない限り解約手付であると解されるところ、≪証拠省略≫によれば、被告が武藤運十郎弁護士(本件訴訟代理人)に委任して、昭和四六年二月一八日原告に到達した内容証明郵便をもって手付金の倍額三〇〇万円の償還を準備したから受領されたい旨催告するとともに本件売買契約を解除する旨の意思表示をしたことが認められる。右内容証明郵便中に売買予約を解除するとしたのはその当時発信者が調査しえた事実関係に基づき昭和四五年一一月二一日原被告間に成立した契約を売買予約と法的評価したにすぎないものであり、真に解除の対象としたのは右同日原被告間の成立した契約、即ち本件売買契約に他ならないと解するのが相当である。

原告は既に原告において契約の履行に著手したから右解除は許されないと主張するので判断する。

本件売買契約において残代金一、三五〇万円の支払、物件の明渡および所有権移転登記手続の日が昭和四五年一二月一〇日と定められたことは前述のとおりである。そして、≪証拠省略≫を総合すれば、次の事実を認めることができる。

被告は昭和四五年一一月二八日原告にも、きみ(同人は本件売買契約において売主たる被告の「保証人」と定められたが、右約定は、被告がオーストラリアに居住する者であることに鑑み、他日契約の履行につき紛糾を生ずることのないように、きみを被告に対する連絡先ないし被告の使者として事務を処理する者とする趣旨であった。)にも連絡することなく、羽田から発って空路オーストラリアの自宅に立戻ってしまった。被告は同日またはその前日にきみに宛てて発信した書面に株式会社協和銀行芝支店長振出の金額一五〇万円の小切手(手付金額に相当する。)を同封し、本件売買契約を解約し、右小切手を原告に交付されたい旨依頼した。その後原告はきみから右依頼の趣を伝えられたが、契約には応ぜず、右小切手の受領も拒否した。このようにして同年一二月一〇日の期日が到来したが、被告がもはや本件建物に居住していない形跡が看取され、契約の履行を期待できないので、原告は自らも履行の提供をすることなく、きみのもとに電話で照会したところ、きみも被告の所在を知らないとのことであった。そこで、原告は埼玉県下の被告の実家に照会する等手を尽した上、圓山潔弁護士(本件訴訟代理人)に相談し、取敢えず残代金一、三五〇万円を調達した。そこで、圓山弁護士は住所をきみ方とする被告宛の昭和四五年一二月一五日付内容証明郵便をもって、原告は残代金一、三五〇万円を用意しているので、同月一七日午後一時東京都港区芝三丁目一五番一八号館岡司法書士事務所に参集し、双方契約の履行をなすべき旨を通知した。右郵便を受領したきみは早速圓山弁護士に電話して、被告の所在が判らないことを説明し、圓山弁護士の求めでそのまま右郵便を同弁護士のもとに返送した。原告は同弁護士の指示により同月一七日午後一時頃合計一、三五〇万円の小切手および現金を持参して館岡司法書士事務所に赴き、約一時間ばかり被告の来訪を待ったが、遂に被告は現れなかった。

このように認められる。

≪証拠判断省略≫

右認定事実によれば、原告は、約定の昭和四五年一二月一〇日の履行期日後、被告がその債務を履行すれば自らもこれに対応する債務を履行しうる準備をし、被告に対し、双方の債務の履行期日と場所を指定して、被告の債務の履行催告を発したのであり、この段階において原告が残代金一、三五〇万円の調達、圓山弁護士に対する相談ならびに右催告手続等事案解決の委任のため費用を支出し、且つ契約の履行に多大の期待を寄せるに至っていたことはたやすく推認しうるところである。このような場合でも、原告が契約の履行に着手したとするためには前記催告が被告に到達することを必要とするのが一般であろう。しかし、契約関係において、一定の法律効果に直接間接に結びつくために必要とされる当事者の一方の行為の程度、態容は相手方の行動、態度等と相関的に考察して決定されるべき場合が少くない。相手方の解除手付に基づく契約解除権を阻却する一方当事者の履行の着手がいかなる態容を具え、いかなる程度に達することを要するかについても、相手方の行動、態度等と相関的に考察することが必要であり、相手方が契約履行の意思を放棄し、履行の催告に応じないことが明白であるような場合には、一方当事者が自己の履行の準備を整えたうえ相手方に対する履行催告を発信し、催告意思が客観的に表明された以上、たとえ該催告が相手方に由来する事情に基づき相手方に到達しなかったとしても履行の着手があったと認めるのが相当である。本件において前記認定事実によれば、被告は本件売買契約締結後、履行の意思を放棄し、原告に対してもきみに対しても一片の連絡すらせず卒然遠隔の地に立戻ってしまったものであり、原告側の履行催告が被告に到達しなかったのはもっぱら被告に由来する事情に基づくのであったから、原告側が残代金一、三五〇万円支払の準備をなし、被告に宛てた履行催告の内容証明郵便を発信したことにより契約の履行に着手したものとすべきである。

これによれば原告の契約解除の意思表示はその効力を生じなかったものといわなければならない。

五  以上によれば原告の本訴請求は理由があるからこれを認容すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条仮執行の宣言につき同法第一九六条を各適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 蕪山厳)

<以下省略>

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